やりたくないことはやらなくてよし。

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迷惑がかからない程度にふてぶてしく生きよう

「普通」がわからないアダルトチルドレンの末路

park


こんばんは、せなです。

 

ついに母親に、アダルトチルドレンとしての鬱憤をぶつけてしまいました。

 

生きづらいこと
幼少期にされて嫌だったこと
癇癪を起してしまうこと
他人と比べてしまうこと
普通の家庭に憧れていること

 

今思えば言い過ぎたなと思うところもありますが、もちろん、言わなければ伝わらないことばかりなのも事実です。

 

母親は困惑していましたが、伝えられてよかったと考えています。

 

家族としてこの問題に一緒に向き合ってもらいたかった。

ただそれだけです。

 

さて、わたしは昔から「普通の家庭」に強く憧れを抱いております。

 

ここでいう「普通」とは何なのか?

 

わたしにとっては、家にお父さん、お母さんがいて、兄弟仲が良く、一緒にご飯を食べたり出かけたりできるような家庭です。

 

皆さんにとっての「普通」は何ですか?

もっともっと、理想がありますか?

それとも、雨風しのげる家さえあれば「普通」のうちに入りますか?

答えは人それぞれだと思います。

 

わたしは小学生の頃、「普通の家庭に生まれたかった」という独り言が漏れて、同居人(母親の恋人)に平手打ちされた経験があります。

 

そのときに言われた言葉を今でも鮮明に覚えています。

 

「今の世の中では離婚は普通のこと」
「食わせてやっているのに何が不満なんだ」
「お前の言う普通っていうものを説明してみろ」

 

大人の男性、しかも赤の他人に暴力を振るわれたことがこわくてこわくて、このときは泣くことがせいいっぱい。言い返すことができませんでした。

 

それ以降、「普通」というワードを出すことに恐怖を覚えながらも、心の奥でずっと憧れ続けていました。

 

もちろん、この男性が言っていたことは正論な部分もあります。

当時のクラスには何人か片親家庭の生徒がいましたし、ご飯を食べて学校へ行く生活がおくれていたのも母親のおかげです。

 

しかし、いつでも心にはポッカリ、穴があいていました。

原因は「愛情の不足」です。

 

両親間の喧嘩、両親が離婚してからは同居人の暴力、見て見ぬふりの母親。

学校に行けば友達がいましたが、帰る家は皆違います。

 

今であれば自信をもって同居人に反論していることでしょう。

 

「わたしにとっての普通は、こうやって赤の他人に暴力を振るわれることなく、家族仲睦まじく暮らすことだ」と。

 

第一、「普通」なんて抽象的な言葉に目くじらたてて子供に暴力をふるう大人なんて、あきれたものです。

 

ちなみに、怨念が届いたのかこのあと同居人は家を出ていくことになりました。おっほっほ。

 

冒頭でも述べた通り、「普通」とは各々の「スタンダード」であり、考えは人それぞれだと思います。

 

その意義に良いも悪いもありません。

 

だからわたしはこれまでわたしなりの「普通」に憧れをもってきたし、これからも追い求めていきます。

 

これを小さな夢だと笑う人はどうぞ笑ってください。

 

また、「こんなことを言われて一生懸命育ててきてくれたお母さんがかわいそう」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしが言いたかったのは「過去にタイムスリップしてやり直してくれ」なんてことではなくて、今現在とこれからの未来のことなんです。

 

自分の考えていることを母親に伝えられたのはその一歩だと思いますし、たまに癇癪を起して、人と比較して、生きていくことが難しいと感じても、その目が未来に向いている限り問題ないと信じています。(ただし、このことで人を傷つけてしまうようなことはできるだけ避けたいものですが・・・。)

 

今までに深めてしまった大きな溝や、空白の時間を、少しずつ少しずつ埋めていけたらいいな。